皆さんこんばんは。理事長の前田です。
さて昨年のJCの全国会員大会 沖縄那覇大会から間もなく一年が過ぎようとしております。懐かしいですね。
沖縄は大学生のときから何度となく観光で訪れておりました。
お隣の与論島ではウィンドサーフィンをやっておりました。
食べ物も美味しく、景色も綺麗ですしね。あと本職は下戸でありますが、呑み助の方々には泡盛やオリオンビールは南国の風味がしてよろしいかと思います。
沖縄の島は碧が濃く、澄んだ青い空が印象的でした。
実は大会期間中に本島南部にある摩文仁の丘を訪れる機会がありました。
その日は早朝那覇から南に車を走らせました。
街が途切れ、そのあと道中見える風景は、小高い緑の丘とどこまでも広がる萌黄色のサトウキビ畑でした。それはまるでキルトのパッチワークのようにも見えました。
東風平(こちんだ)、南風原(はえばる)という地名から昔よりこの琉球の島には良い風が吹いていたんでしょう。たしかにサトウキビ畑がざわわ、ざわわとあたりでなびいていました。時間が止まっていたかのようでした。
この南部の街道は大東亜戦争末期 沖縄戦最後の激戦地であり、南風原には当時陸軍の野戦病院壕が造られ、大勢の負傷兵がここで亡くなりました。
鉄の暴風雨とまで言われた米軍の凄まじい砲撃によって、沖縄の県民は約10万人の人々が非戦闘員にもかかわらず亡くなりました。これは総人口のうち4人に1人が命を落としたことになります。
また沖縄を防衛した在島将兵もその多くが戦死し、その数も約10万人であったといいます。米軍側の戦死者数は米海軍の特攻による被害もあわせて約1万人でした。
あの小さな島でこれだけ多くの命が失い、いかに日米ともこの沖縄を作戦上重要視していたかを物語っております。
その中でも悲劇的であったのが映画や小説でも有名な『ひめゆり学徒隊』です。彼女たちはまだ15歳から18歳までのあどけなさを残す少女たちでした。
昭和20年4月1日の米軍上陸直前に負傷兵の救護、看護を軍命として動員を受け戦闘時も彼女たちは砲弾の中を駆け回っていたのです。沖縄の少年たちは『鉄血勤皇隊』として兵隊同様に銃を持って戦い、そのほとんどの学生が戦死しました。
やがて那覇の首里城内にあった司令部が陥落し、軍は沖縄本島南部に撤退を開始します。
しかしそこには多くの沖縄県民が避難しており、島田叡(あきら)沖縄県知事は軍司令官に南部での戦闘を控え県民の人命を優先してほしいと命令の撤回を求めましましたが、軍は一日でも長くこの島で持久戦を遂行し、敵の本土上陸を遅らせたいことが第一であるとし、結局司令部を南端の摩文仁の壕へ移しました。
そして敗色が濃くなった6月18日、ひめゆり学徒隊を含む多くの女子学徒隊に突然軍から解散命令が出されます。彼女たちは途方にくれてしまいます。戦場の真ん中で今更避難も出来ず、この日を境にひめゆりの少女たちのほとんどが亡くなってしまいました。そして6月23日に組織的な戦闘が終了。あともう少しで彼女たちは暗い壕から眩しい太陽の下を歩けたのです。
軍にも武士の情けがあれば、彼女たちや非戦闘員を非武装地帯に集めて保護していればと思いますが、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が徹底していたあの時代には叶わず、また現在の考え方で検証することが果たして最善なのかは正直考え悩むところではありますが、前途有為な少年少女たちを何とか助けられなかったのかと無念でなりません。
摩文仁の丘に着き、式典の後、ひめゆり平和祈念資料館を訪れました。ここは第三外科壕があった場所でこの壕にいた96名のうち87名が亡くなり、ひめゆり学徒隊、教諭のほかに軍医や従軍看護婦や住民も犠牲になりました。
資料館では、十五年戦争観というのか一部分論調的にわたくし自身疑問を持つところも正直ありましたが、沖縄戦の凄惨さをを映像や遺品を通じて切実に訴えかけてきました。
そして亡くなったすべてのひめゆりの少女たちの遺影が飾られた部屋がありました。
そこには生き残った同級生が戦後記したのでしょう少女たちがどんな性格の女の子であったのか懇切丁寧に書かれておりました。そして亡くなった日時場所も載せてありました。なかには死亡日時場所不明とだけ書かれた遺影もあり、人知れず今も土の中で眠っているのかと思い、涙が溢れてしかたがありませんでした。
資料館では生き残った方々の手記も閲覧できます。あの戦争を体験した人々がご高齢で亡くなってゆく今、記憶を風化させてはいけないと思います。
どんな思想信条の人も戦争を起こしたくてしょうがない人間はおりません。
しかし同時に平和はただ唱えるだけでは維持できません。
防衛力という盾と矛を身につけねば、守れる人の命すら守れません。
観念論的な平和論は それ自体は美しいかもしれません。
しかしそのようなサンクチュアリから今そこにある危機にどうやって対処するのでしょう? わたくしはそのような考えに自分や大切な人々の命のリスクを預ける気には申し訳ないですがなれません。
沖縄の風を体に受けながら命の尊さと、その命を守るべくしっかりとした危機管理を模索しました。
懐かしいあの風景を思い起こしながらも、わたくしの考えは今も変わりません。
平和式典時に序幕式が行われました。2009年日本青年会議所会頭
であった沖縄県ご出身の安里繁信君がその想いを碑文に籠められまし
た。
終戦直後1946年に建てられました。物資難の時代でもあり、また
米軍統治下の事情もあってか小さな子どもくらいの塔でした。
後方のレリーフは後に建てた慰霊碑で、こちらをひめゆりの塔と思って
いる方も多いと聞きました。
レリーフの前は壕の入り口でひめゆりの少女たちがたてこもり、
そのほとんどが米軍の黄燐弾の攻撃で命を落としました。隆起珊瑚礁
の自然洞窟(沖縄ではガマと呼ばれる)を利用しておりますが、垂直に
切り立った入り口のため逃げ場所がなく、最も被害が大きかったそうで
す。
ひめゆり学徒隊は沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校
女子部の生徒たちで構成され
前者の校友誌[乙姫]と後者の[白百合]が
後の学校併設により合さって[ひめゆり]となりました。
動員された教諭と学徒計240人のうち136人が亡くなりました。
資料館外観はその往時の学び舎の雰囲気を残したそうです。
またいつか訪れたいと思います。
そして沖縄戦でもう一つ印象に残ったことは
今回は訪れてませんが、以前訪れた沖縄 豊見城市にある
激戦地旧海軍司令壕跡です。
ここは主に海軍の軍人が守っていたところでしたが
陥落寸前に司令官太田実少将は東京に宛てて最後の打電を
送られました。
それが有名な
『沖縄県民斯く戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』
であります。
島の形が変わるまでの砲爆撃の中、必死になって戦う軍や県民
の経緯と実情、その損害の大きさを軍首脳部に率直に伝えています。
そして激戦敢闘した沖縄県人にどうか後の世で困らぬように充分な
配慮願いたいというこの言葉で終わっています。
海軍軍人としては本来逸脱した行動だったのかもしれませんが、
それほどまでに沖縄県民の方々への想いがあったのでしょう。
太田少将は、県民救護に全力であたられ最後は摩文仁の壕で亡くなられた
といわれる島田 知事とともに今も沖縄の人々の心に残っています。
壁に見られる無数の穴は、多くの将兵が手榴弾にて自決された
その痕です。今もそのままになっていました。
【白梅の碑】
新里堅進氏の書籍です。
白梅女子学徒隊は沖縄県立第二高等女学校の生徒たち
が負傷兵を看護をしておりました。
ひめゆりの少女たちと同じく多くの生徒が亡くなってしまいまし
た。白梅の慰霊塔は沖縄南部の国吉にあります。
沖縄戦で亡くなられたすべての方々のご冥福をお祈り申し上げます
大会時の懐かしい写真もありました。