カレンダー

2013年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

いつも心に太陽を!

  皆さんこんばんは。理事長の前田です。

   一段と寒さが厳しくなりました。いやあ冬らしいといえば冬らしいのですが

 だんだん朝布団から離脱する際、自分を説得する時間が長くなりました。

 とんだ四十にして惑わずであります。(論語)

 これでは 本職は中国の孔子平和賞の受賞は無理ですね・・・。 

 

 本年40歳にしてJCをいちおう現役を退くわたくしは昭和45年生まれであります。

 

太陽の塔.jpg

                       【太陽の塔フィギュア】

そうあの大阪万博のときに生まれました。 

三波春夫さんの♪『世界の国からこんにちは』がまるで人生のテーマソングのようなものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたくしの生まれた1970年とはいったいどんな時代だったのでしょう。

 

 

大阪万博俯瞰.jpg

                      【大阪万国博覧会 会場】

            吹田市にあった広大な山を削って造られました。

            今は緑地公園になっています。

 

祭典.jpg

                       【シンボル 太陽の塔】

       人類の進歩と調和(Progress and Harmony for Mankind)がテーマでした。

 

大阪万博図.jpg

                        【 大阪万博 会場図 】

             開催期間 3月14日~9月15日

             入場者数 6421万8770人
             1日の最高入場者:83万6千人 9月5日(土)に記録
             平均入場者数:35万人

             まさに空前絶後の祭典だったのです。

          

        因みにわたくしの母君は万博に行っておりません。本職が腹の中に

        いたからでありますが 

  いまだに「アンタのおかげでエキスポ行けんかったー」(長州弁)と言いよります。

        それをあっしに言われてもねえー 困ったもんでやんす・・・・。

 

1970年はいろんな出来事がありましたが、ダイジェスト版で4つ採り上げました。

 

*よど号ハイジャック事件*

よど号事件.jpg

                        【日本航空 よど号】

  事件は1970年3月31日に発生。

 羽田空港発 板付空港(現 福岡空港)行きの日本航空351便 ボーイング727型機が富士山上空を飛行中赤軍派9名によってハイジャックされた。犯人グループは北朝鮮に亡命する意思を示し、要求を聞き入れない場合には乗客乗員を殺害すると声明を出した。

 よど号機はやがて板付空港を離陸し進路を北に向けた。

 

yodo-kinpo.jpg

                【軍政下の韓国 ソウル金浦空港のよど号】

 当時の朝鮮半島情勢は1968年に北朝鮮の特殊部隊による朴大統領暗殺未遂事件(青瓦台事件)が起こり、板門店を挟み軍事境界線では特に緊張が高まっていた。

その中を日本の航空機が平壌に向かおうとしたわけであるから場合によっては撃墜された可能性も大いにあったわけである。韓国空軍機のスクランブルにより、よど号は急きょソウル市内金浦空港に強制着陸した。

 当初はここが平壌空港であると犯人側を騙す作戦に出たが、犯人のひとりが空港内にシェルのマークが入ったタンクが並び、持っていたラジオからは英語の放送が流れたことで発覚。人質解放まで実に79時間もの長い膠着状態が続いた。田宮高麿をリーダーとした犯人グループは最終的に平壌へ亡命した。

 

ハイジャック.JPG

                         【愛読書です】

 当時の様子などが詳しく書かれております。

 初代内閣安全保障室長であり1972年の浅間山荘事件では氏は現場にて

検挙にあたる機動隊員の指揮を執られました。(映画『突入せよ』主演役所 広司)

 危機管理の第一人者でもある著者の本はリーダー論などにも触れておりJCでも大いに役立つものと思います。

 よど号事件後、政府は直ちにハイジャック防止法を制定したが、効果的にテロを

防止する体制はまだまだ不十分であった。(1977年ダッカ ハイジャック事件など)

 ハイジャックの由来に かつてアメリカ西部開拓時代に駅馬車を襲う際、

「Hi 、Jack!」 [やあ アンタ!]といって声を掛けたことからきているそうです。

Jackは英語圏では一般的な名前であるため ロスアンゼルス空港などでは

「ハーイ ジャック!元気?」と不要に呼びかけないようアナウンスしているとか。

(ホンマかな?)

 

*国産初 人工衛星おおすみ 打ち上げ成功*

 

ohsumi_s.jpg

                       【人工衛星 おおすみ】

 東京大学宇宙航空研究所(現在の独行 宇宙航空研究開発機構 JAXA)が鹿児島県大隈半島にある宇宙空間観測所から打ち上げに成功。

 1970年2月11日のことであった。

 

おおすみ打ち上げ.jpg

                         【打ち上げ映像】 

 テポドン(大浦洞)ではありません。

 おおすみを宇宙に打ち上げたL-4S観測用ロケットです。おおすみはこのロケットの最上段〔4段目〕に積まれたました。 東京の国立科学博物館の裏庭に今でもこの雄姿が展示されています。

 

おおすみ はやぶさ 糸川博士.bmp

           【人工衛星おおすみ、はやぶさと糸川博士フィギュア】

 国立科学博物館で限定販売されてました。展示物をパチリ。

 各々の大きさが比較できて面白いです。おおすみってこんなに小さかった

 のですなあ。(長さは1m 重さは23.8kg)

 中央のメガネの方は日本のロケット開発の父 糸川英夫博士であります。

 このおおすみの開発にも携わり、日本の宇宙開発に多大なる貢献をされました。

 今年ニュースになった小惑星探索機はやぶさが降り立った惑星イトカワは博士の名前からきているのですが、はやぶさと聞けば大東亜戦争時に同じく博士が若きころ開発した名戦闘機 隼(加藤隼戦闘隊)と重なってしまうのは偶然でありましょうか。

 現在 金星探索機 あかつきプロジェクトが展開中です。金星周回軌道投入中にあかつきは思いもよらない事態に遭遇し、残念ながら今回の軌道投入は失敗でありました。しかし日本の技術の威信にかけて必ずや次のチャンス(約6年後)には成功するでありましょう。可能性は聞くところによれば数%あまり、しかしゼロではありません。

 昔も今も日本の技術者は粘り強いことで有名です。失敗を乗り越え、新しいミッションを打ち立ててゆくでしょう。あかつきプロジェクトメンバーの皆さん頑張ってくださいよ!応援しております。

 

金星探索機あかつき.jpg                         【金星探索機 あかつき】 

                                    JAXA HPより

 

*三島 楯の会事件* 

  

市ヶ谷事件.jpg

               【バルコニーから隊員に呼びかける三島由紀夫氏】

 作家三島由紀夫氏が楯の会のメンバーを率いて東京都 新宿区市ヶ谷にあった

陸上自衛隊東部方面総監部(現在の防衛省が建っている場所)で益田 兼利総監を人質に立て篭もったのは1970年11月25日午前11時過ぎのことだった。

 

市ヶ谷記念館パンフレット.JPG                    【市ヶ谷ツアーに行ってきました】 

 舞台となった場所は現在防衛省の建物が立ち並び、往時の面影はありません。

建物自体も同じ敷地内に一部移築されましたが三島氏が篭城した総監室などは残されており、今でも見学は可能です。本職も数年前にサマコンのついでに防衛省広報課企画の見学ツアーに参加して参りました。(要事前予約)

 部屋には三島氏が日本刀を振り回した際にできた傷痕がドアや柱に残され、凄惨な

事件の痕が今でも目にすることができます。部屋に突入しようとした自衛隊員も数名応戦してきた三島氏により刀傷を負っています。

    

取り壊し前の姿.jpg

                     【展示されていた復元模型】

 昭和12年(1937年)に建てられたこの建造物はかつて陸軍士官学校の校舎であり、後に戦時中は陸軍の中枢として主要な作戦がここからおこなわれました。

 東京大空襲ではなぜか爆撃の目標から外されたのには訳がありました。

  映画『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督 1967年)では降伏を決定した8月14日から玉音放送がなされる15日正午までの極限状態を手に汗握る展開でみせてくれます。(なにせ真夏の出来事なので観ていると本当に蒸し暑く感じます)

 世界のミフネ 三船敏郎が戦争継続と和平のはざ間で苦悩する阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣を演じています。

 映画論的には当時の登場人物を演じる男たちのストイックさが際立っており、追いつめられた人間の狂気や自己を犠牲にしても信念を貫く男の姿をこれでもかと描いています。国を救うため身を捨てた男の姿もそこにあります。しかし作品の言わんとしていることは戦争と言うもののただ空しさであります。

 劇中この市ヶ谷の建物もそのままロケに使われており、往時の姿を見ることができます。この撮影の四年後に三島氏が同じ場所で事件を起こしたことに、目に見えぬ何かが引き寄せたのでしょうか。

 

講堂.jpg

                                      【大講堂】

 当時は二階にありました。前方の舞台上の緋絨毯は玉座であり、戦前の陸軍士官学校卒業式にはここに天皇陛下がお座りになられ、そのためひときわ高い位置に設けられております。

 この場所は戦後特に有名になりました。

 

極東軍事裁判.jpg

                        【極東国際軍事裁判】

 いわゆる東京裁判の法廷に様変わりしたのでありました。そのため爆撃を避けたのでありましょう。

 東條英機 元首相をはじめ日本の指導者28名を文明の名において世界征服の責任を裁くもので、通常の戦争犯罪に加え「平和に対する罪」という新たな概念で起訴されましたが、そもそも裁く側は全員戦勝国が派遣した裁判官であり『勝者の復讐劇』という側面も多分に見られました。

            パル判事.jpg                     【 ラダ・ビノード・パール判事 】  

 インドの法学者であった博士は東京裁判において唯一被告人全員を無罪と主張した判事でありました。[写真は靖国神社の境内にある顕彰碑より]

 パール判事の意見書[パール判決書]では「裁判の方向性があらかじめ決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨で裁判そのものを批判し、被告全員を無罪と主張しました。裁判の軸であった「平和に対する罪」「人道に対する罪」は明らかに事後法で敗戦国だけに向けられたものであり、連合国軍による残虐行為は検証もされず訴追もおこなわれておりません。

 小学生の頃観た漫画「はだしのゲン」では、腹を空かせたアメリカ軍捕虜を不憫に思いゴボウを食べさせたが戦後裁判では木の根っ子を食べることを強要されたとなって元日本兵は重労働の刑に処せられたという逸話が載っておりました。(今でも小学校に置いてあるのだろうか)文化の違いをろくに検証しないで裁判にかけた良い例でしょう。

 裁判中は連合国側に不利な発言があった場合、なぜか同時通訳のマイクが通じなくなったり、また証拠資料も日本側のものは却下されるケースも時にはあったそうです。

 わたくしは思います人類に等しく「平和に対する罪」、「人道に対する罪」がかけられるのであるのならばアメリカ軍が戦時中おこなった東京大空襲をはじめ日本各地を焼け野原にし、非戦闘員であった婦女子を無差別に殺害した罪、ヒロシマやナガサキに原爆を投下し無辜の市民を残虐に殺戮した行為はあきらかにジェノサイド(genocide 大虐殺)にあたります。文明の名においていわゆる枢軸国の戦争犯罪以外にこれらが一度でも裁かれたでしょうか。

 リンドバークの手記にもあった太平洋の島々でおこなわれた日本兵への虐殺や虐待行為に対して連合国軍は実行した者を捕まえ刑に処したでしょうか。更には戦後におきた日本人に対する犯罪事件(殺人、暴行など)がどれだけ闇に葬られたことでしょうか。これらの点を踏まえても公明正大な裁判ではなかったと言えます。

 いかなる戦争というものにも聖戦なるものは存在せず、ただあるのは勝者と敗者の二つだけだとこの裁判は良くも悪くも示している気がします。

 戦後日本を総括するにはこの東京裁判をどう検証してゆくか避けては通れない問題ではあります。

 碑に記されたパール判事の言葉です。

 

              時が熱狂と偏見をやわらげた暁には

              また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には

              その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら

              過去の賞罰の多くに そのところを変えることを

              要求するであろう

 

 話が昭和45年から離れてしまいました。失礼しました。

 

市ヶ谷記念館.jpg

                        【市ヶ谷記念館】 

   バルコニーと主要な部屋などは残され後ろには大講堂も移築されました。

  憲法改正のために自衛隊の決起を声高に叫んだ三島氏であったがその声は

上空をゆく取材ヘリコプターの爆音にかき消され、広場に集合した

  自衛隊員からは「バカヤロー!」「何やってんだ!降りて来い」と野次で溢れました。その後三島氏らは部屋に戻り、古式にのっとって愛刀 関の孫六で切腹し介錯されました。共に行動した楯の会メンバー森田必勝も同じく自決。絨毯は真っ赤に染まったといいます。

 ノーベル文学賞候補として注目を浴びていた著名作家が引き起こした事件は世界中でも論議をおこしました。

 三島氏は亡くなる直前にこのような手記を残しています。

          『このままいつたら「日本」はなくなって、その代わり、
               無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、

          抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。』

 もし今でも存命であったならば三島氏は今年85歳を迎えています。

 ふと思いました。今の日本を見てどう評論するのだろうと。

 

*オキナワ コザ騒乱* 

コザ暴動一夜明けて.jpg

                   【暴動から一夜明けた沖縄 コザ市内】

 年の瀬も押し迫った1970年12月20日未明、まだアメリカ統治下の沖縄コザ市(現在の沖縄市)で米兵の乗った乗用車が地元住民を巻き込んだ人身事故を起こしたが、現場検証をしていたMP(米軍憲兵)の事故処理への不満がきっかけになり、度重なる米兵の不祥事による反米感情が爆発し、付近の群集は一気に暴徒と化し米兵に対して投石をはじめ沿道に駐車してあった米軍関係者の車両を車道中央に押し出し放火した。琉球警察は米軍憲兵隊らとともに事態の収拾に努めたが、暴徒はやがて二手に分かれて嘉手納基地第2ゲートから侵入した。米軍側は威嚇発砲と催涙弾で応戦

した。米軍車両60台以上が炎上し、警官、住民多数、アメリカ兵十数名が負傷したが、民家、商店街からの略奪行為や日本人の車両への被害は無かった。

 

コザ暴動.jpg

               【銃剣で住民の抗議行動を威嚇する米兵】

 モンゴル800のアルバム『MESSAGE』( 2001年)にも載っていた有名な写真。一番好きなアルバムです。(あの当時はいつもカラオケで『あなたに』『小さな恋のうた』をシャウトしておりました。)

 

 事件の背景には前年アメリカ軍が島に貯蔵していた致死性の毒ガス(主要成分はサリン及びVXガス)が漏れ出る事故があり、島ぐるみで撤去運動が起こっていたことも挙げられる。琉球政府は事態の収拾を図るため躍起になっていたが、沖縄返還を直前に控え、日本側の反応は返還交渉に支障が出ないように終始し、地元住民の抱かえる不満を理解することはなかった。そのツケが今の沖縄の流れをつくったと言えるのではないだろうか。

 地理的に沖縄本島が東アジアの安全保障上与える影響は計り知れないものがあり、今後の中国の覇権主義的な行動と台湾海峡や朝鮮半島などでの有事に即応するには沖縄の軍事的拠点はなくてはならない。

 現政権は基地の県外移設を求められているが、国防という危機管理上、その位置が少しでも変わってしまえばミリタリーバランスが崩れ、更なる緊張と不必要な国防予算を生み出す結果にしかならない。

 我々本土に住む人間が日々安心して暮らせるのは沖縄に巨大な軍事基地があり、それが日本の防波堤となっているからなのです。沖縄の人々が営む生活のど真ん中に軍事を積み上げているからなのです。その構図は戦時中と何ら変わっておりません。沖縄の基地をこれからも使用しながら、かつ県民の方々の負担を減らすにはどうしたらよいのか。国民全体の問題であります。

 これからの日本の国防論は南西諸島の防衛が最重要課題となります。これからは北海道の機甲師団よりも機動性に富んだ特殊ヘリ部隊の必要性が問われてゆきます。仮に米軍を縮小させるのであれば、自衛隊の配備で補わねばなりません。

 

 自分の国は自分たちで守る そういった至極当然のことを我々は粛々とおこなってゆかねば国の主権と言うものが本当に無くなってしまうのではないかと危惧します。

 戦争によって滅びた国は洋の東西を問わず数え切れないほど存在しますが、同時に国の中から崩壊しやがて列強に併呑された例も枚挙にいとまがありません。

           蛮族来たりてローマ滅びたるや

                 非ず ローマみずから滅びたり 

                                    エドワード・ギボン

 

 

 

いかがでしたでしょうか。昭和45年という年は万博のお祭りの年だというイメージが大きかったと思いますが(わたくしは一年じゅう万博が開催されていたと思ってました)

高度成長期であり昭和元禄太平の世とも言われた時代でもありました。

しかし結構激動の時代だったのですね。その他光化学スモッグが全国的に発生したり、日米安保の自動延長の声明が出され大規模な反政府デモに発展したり、広島ではプリンス号という観覧船がシージャックされた事件(犯人射殺)があったりと騒然とした年でもあったのです。

明るい話題では、東京銀座で初の歩行者天国を実施し、登山家の植村直己さんが初のエベレスト登頂に成功がありました。

フジテレビではアニメ『あしたのジョー』がスタートし、TBSでは『時間ですよ』がお茶の間での高視聴率をとりました。

 洋画では『イージーライダー』が映画館で上映されました。Steppenwolf の『Born To Be Wild』がピーター・フォンダが乗るハーレーのチョッパーの疾走シーンにシビれるくらいハマっています。デニス・ホッパーはウェスタン風でキメています。(本職はヤマハSR400で学生時代プチイージーライダーしとりました)

あとは『明日に向かって撃て』もこの年に公開されました。ポール・ニューマンと当時まだ無名だったロバートレッドフォードが渋い。西部劇屈指の名作です。劇中流れるB・J・トーマスの『雨に濡れても』(原題 Raindrops Keep Fallin' On My Head)は一度は皆さん聴かれたことがあるでしょう。

 

 

 

 

さて同じ2010年をともにJC活動した昭和45年組理事長のお二人です。

 

岡鼻理事長と.JPG

                   【新宮青年会議所 岡鼻理事長と】

       何をそんなに喜んでいるんでしょうか?わたくし。7月の泉佐野大会にて。

       岡鼻理事長 またの名をミスター コニャニャチワー氏

       彼の明るさは県下8LOMで特に際立っておりました。

       岡鼻理事長のおかげで理事長会議も時にはホンワカした雰囲気で

      癒されました。あの鳩ポッポ事件も岡鼻理事長らしい?エピソードでしょう

      か。でも時には鋭い質問をブロックの会員会議所会議でも発せられ、誰も

      が気付かなかった大事な点をチェックして頂きました。LOM監事も同じタイミ

      ングでお互い就きまして、その時は近畿地区大会 新宮大会に向けて県下

      の監事がまず一致団結しようと率先して監事会を結成してまとめてくれまし

      た。

       あの勝浦での大黒摩季さんのライブで合唱した『ら ら ら』はそんな彼の努

     力の結晶であります。最高のひとときでしたよ。

 

     

お互いに驚き?.jpg

                    【和歌山青年会議所 西廣理事長と】

          今度は何をそんなに驚いているのでしょうか?わたくし。

          世界会議 大阪会議 ウェルカムパーティーにて

          いっしょに写っておられる西廣理事長もビックリ顔です。

          ふたりフライデー状態ですか。

          キャピタルJCである和歌山JCの理事長として、その佇まいは毅然とし

       ておりました。しかも笑顔の絶えないナイスガイでもあります。

          わたくしは和歌山JCさんのメンバーをたくさん存じ上げておりますが、

       私が日頃親しくさせて頂いている方々は全員、県都のJCという自負と、

       日本JC会頭輩出LOMという栄誉と伝統を誇りに頑張っておられます。例

       会や事業の数も多く、また海外に多くの姉妹JCを持ち国際親善にも力を

       入れられております。さすがは紀州五十五万五千石の和歌山城をいただ

       く青年会議所さんです。大企業の会社をいつも連想させます。

       

          お二人と同じときに理事長をさせて頂き本職は幸せでありました。

          いろいろお世話になりました。かたじけないです。

          お互い来年も直前理事長で頑張りましょな!

 

 

おまけ

太陽の塔 裏.jpg

                       【 太陽の塔 裏側 】

          太陽の塔には裏にも顔があるのです。といいますか全部で4つ顔

          があります。

          表の顔は現在の顔、背面の黒は過去の顔そしててっぺんの金色

          の顔は未来をイメージしているそうです。

          残りのひとつは地底部分にあるそうですが今は公開されてません。

          裏面の顔を観るたびにわたくしはあの人を思い出します。

          それは まっ・・・・・・・・・・・・・・・いえ・・・・・言えません。消されて

          しまいます。(汗)

      

ベッツィー&栗栖.jpg                       【 ベッツィー&クリス 】 

          わたくしの大好きなフォークソングです。実家のレコードジャケットより

         ドーナツ盤レコードの回転数はいわゆるシングルのEPが45で大きい

         LPが33でしたね。CDはわたくしが中学3年生の頃レコード盤と入替

         わりました。あのでっかいLPアルバムも味があったんですけどねえ。

         1969年にサウンドオブヤングハワイのメンバーとして来日中にスカウ

         トされ、いきなり日本語の歌でデビュー。(それもスゴイなあ)

         透明感のある声がいいですね。作詞は北山修、作曲は加藤和彦とい

         うあのフォークルメンバー。彼らはその後『あの素晴らしい愛をもう一

         度』もヒットさせてます(1971年)

         映画『パッチギ』[井筒和幸監督]でもエンディングで流れてましたね。

      

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

コメント(0)

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.kainan-jc1969.net/kainanjcmt/mt-tb.cgi/415

カテゴリ:

このページのトップへ