みなさんこんばんは。
今回、宮城県の東松島に、近畿地区協議会内の6ブロックで、炊き出しの支援活動に行ってきました。(4月28日~4月30日まで 3
日間)
4月28日に和歌山を出発し、奈良で奈良ブロックのメンバーと合流、いざ宮城へと向かいました(成川副理事長、阪口副理事長、内海副委員長お見送りに駆けつけていただき、ありがとうございました)。
バスで高速道路を走行中、宮城県に入ったあたりで、寝ている人が飛び起きるほどの大きな揺れを感じました。また、窓の外では道路が大きく波うつなど、津波の爪痕がバスの中からでも、はっきりと分かるほど残されていました。
現地に到着すると、炊き出し予定地の公園には、すでに仮設住宅が建設されていて、そこでの炊き出しはかなわず。急きょ、公園の裏にテントを張って、炊き出しを開始しました。
今回私達の用意したものは、たこ焼き、綿菓子、たい焼き、フランクフルト、焼きそば、たこせん。各300食。炊き出しというと、豚汁
、カレー、おにぎりなどが王道ですが、長期間の避難生活をつづける被災者の方にとっては、同じメニューばかりで飽きがくる、との声を
聞いていました。今回、こういった屋台的なメニューは、すこしでも食事を楽しんでいただこう!との考えによるものです。
炊き出しを開始してまもなく、すごい行列が。
私が担当したのはたい焼き。もちろん、たい焼きを焼いた事など一度も無い素人です。ですが、そんなわれわれの焼くたい焼きを食べるために、二時間以上も行列に並んでいた被災者の方々。その姿に、本当にいまここにはモノがないのだということ、その不自由さを痛感し、胸が痛みました。
行列は、すぺての食べ物がなくなるまで途切れることなく、15時ごろには炊き出しを終了しました。
印象に残った出来事、感じたことが、いくつかあります。
一つ目は、炊き出しをスタートしてまもなくの出来事についてです。
何人かの小学生くらいの男の子たちが「何が始まるんだろう」という顔で、屋台を見に来ました。
私たちが
「今からここで縁日すんで。いろいろあるからみんなで食べに来てや」
というと、嬉しそうにうなずきます。さらに、
「お父さんとかお母さんとか姉ちゃんとかおじいちゃんとか、みんな連れてきてな」
というと、一人の男の子が
「おじいちゃん流された」
と。言葉を失いました。
甚大な被害が出ていること、この地の人々が大変な目にあっていること。
わかっているつもりでした。ですが、この言葉に、自分の認識があくまで頭だけのことで、心から現地の方々の気持ちに寄り添っていなかったことを実感。深く反省しました。
二つ目は、被災者の方々のなかでの差異、というもの。
震災により、同じように不自由な生活を余儀なくされている被災者の方たち。
避難所で生活を続ける方と、幸いにも家屋の崩壊をまぬがれ、自宅で生活をしている方がいます。
みなさんご存知のとおり、避難所に暮らす人々には、手厚い支援(炊き出し、物資など)があります。
ですが、自宅に暮らす被災者の方たち。
家は残ってはいるものの、1Fは水浸しで使い物にはならないなど、不自由な生活を強いられていることは、避難所の方たちと同様です。
なのに、ここには炊き出しや支援物資も行き届いていません。
我々のようにボランティアで支援に向かう人のほとんどが、マスコミなどの情報を鵜呑みに、避難所にしか訪れないケースが多いと聞きます。
現状で本当に必要としている場所に行き届かない支援。同じ箇所に大量に送られつづる物資......。
その結果、物資が溢れ、仕分けに追われ、挙句には、物資を企業に返す避難所があると聞きました。
本当は、その物資を必要としている人が、まだたくさん居るはずなのに......。
三つ目に感じたことは、自衛隊の方たちに対しての敬意をはらうということです。
膨大な量の瓦礫の撤去、そしてその中には行方不明者が埋まっているかもしれないので、細心の注意をはらい、日々この過酷な作業を仕事とはいえ続けているのです。
誰からの賞賛があるわけでなく・・・・。
今回、宮城い行き感じたのは、TVのニュースやインターネットの情報などとは、自分の目で見て、自分の耳で聞くことのちがいです。
このボランティア支援は、この先も継続的に続きます。もし時間が許すのなら、自分自身で感じてください。